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WICCA 

 

 

 

​●第三章 想い

リュゼ.png



片手の平に鋭い痛みが走り、リュゼは目が覚めた。体全体が痛むが、より酷いのは手と足だった。重い頭をもたげ、痛みの方面を見ると、太く大きな釘が突き刺さっていた。血がダラダラと流れ出している。
椅子に座らされたまま、両手両足を釘で打たれているようだ。悲鳴も泣き声もあげず、グッタリとした彼女は目の前の椅子に座っている人物を睨みつける。

「おお、こわいこわい。とって食われそうだ。ようこそ、リュゼ。俺のホームに。なあ…気分はどうだ?

ニヤニヤと笑いながら、男はこちらを眺めている。リュゼは睨んだ表情を変えず、ただ彼を見つめたまま口を閉じている。その様子が気に入らなかったのか、男は足で彼女の足に突き刺さった釘を踏んづけた。
骨が割れる音がして、釘が彼女の足の甲に沈んでいく。ひどい痛みに襲われてもなお、彼女は口を開かずに耐えていた。ポロポロと、涙が溢れ、肩を震わせながらもリュゼは男を睨むのをやめなかった。血走った瞳には、彼の余裕の笑みだけが映されていた。

「強情だな、そういうところがたまらない。やりがいがあるってもん、だなぁ!?

彼は椅子から立ち上がり、リュゼの前に来ると彼女の頬を殴った。頬が切れ、血液が口から溢れ出る唾液とともに床に飛び散った。鉄の匂いが口の中に充満して気持ちが悪い。数分も経たないうちに、彼は、彼女の顎を持つと、意識朦朧としている彼女の瞳を右手の指で抉りとった。
グチュリという水音を立てながら、目を引き抜く。痛みに耐え切れずに悲鳴をあげたリュゼを見て、男は満足そうに笑う。ぼたぼたと赤い血が流れ落ち、黒く変色した床を濡らしていく。彼は、掴んだ目玉をそのまま口に含むと、中で遊ばせたあとかみくだいた。

「聞いた質問にはちゃんと答えろ。リュゼ。なんのために、生かしたままお前を連れてきたとおもってんだ?あ?

男はリュゼの髪を掴み、顔を上に向けさせる。ばたばたと血を流す彼女の表情は、先ほどとは打って変わって曇っていた。痛みに怯えているのか…グランは彼女を見てニヤリと笑った。
片目をえぐった手で、彼女の頬を撫でる。するとリュゼが口を開いた

「わたしを…捕まえて、拷問して、モルセーゴをおびき出す気なのか?…だとしたら無意味だ…

彼はリュゼから手を離し、あーあ、とつまらない表情をすると、目の前にある椅子に再び座った。近くにあった机の上にあるワインを手に取った。

「まだわかってないのか。おめでたい頭だな。順序が逆だ。

「なに…?

「思い出してみろ、お前を釣り上げた餌のこと。お前をあの洞窟から誘き出したあの匂いは誰の匂いだった?

リュゼは、とても驚いた顔をした。
まさか、そんな…モルセーゴがこいつに負けるなんて…?

グランはワインをそのまま飲むと、話を続けた。

「馬鹿なモルセーゴは、俺たちの誘いに乗って、一人で乗り込んできた。
そして負けて死んだ。

「う、嘘だ…だったらわたしも死んでるはずだ!

「だから、テメェを道連れにされないように、処置したんだよ。証拠が見たいか?

リュゼはじっとグランの目を見る。彼の表情は変わりなく、また嘘をついているようでもなかった。彼女は少し苦い顔をして俯くと、ゆっくりと頷いた。
答えをみたグランは、ギラギラと尖った牙を見せながら笑うと、彼女の手足に刺さっていた両の釘を引き抜く。叫び声を押し殺して、リュゼはその場に倒れ込んだ。

「馬鹿だなお前。会わせるわけねぇだろ。

声を殺しながら痛みに耐えるリュゼの手を引っ張り引きずりながら、部屋を出る。外にはミュオが待機しており、彼女はグランに連れられたリュゼを見るなり慌てて駆け寄った。

「おい、クソナメクジ女。こいつをさっさと540号の部屋に入れとけ。
ははは…リュゼェ…お前をいまからたっぷりと虐めてやるからな?


リュゼは朦朧とした意識の中で、身体中を襲う痛みに耐えていた。彼女がこの部屋の中に移送されてからずっと、意識は途絶えることなく、彼によって彼女は生かされ続けていた。
空を切る鞭が、リュゼの体に無数の傷を作っている。彼女は悲鳴も上げず、鎖に縛られた四肢を動かすこともなく、ただそれに耐えていた。何も言わない女に腹が立った男は、いつも通り彼女を殴る。ようやく生気のない瞳が彼を捉え、瞳に映った男はいつも通り彼女の頬を掴んだ。

「なんだ、もう3本も生えてきたのか。昨日抜いたばかりだろ?人間に近くなったって言っても、やっぱ魔女属の回復力は残ってんだな。

黒い髪にすこし浅黒い肌をした男…グランは、リュゼの口内を見ながら笑った。
思い切り頬を掴み、口を開けさせると、右手に持ったペンチを彼女の口にゆっくりと差し込む。
しばらくすると、ゴリッという音が響き、リュゼは顔を歪めた。涙が頬を溢れ、口からは唾とともに血が溢れ出す。
グランは、満足そうに抜き取った白い塊を見るとすぐに地面に捨てた。そして三つ全て抜き終えると、鼻歌を歌いながら、自分のズボンのファスナーを下ろし、彼女の口に性器を擦り付ける。
唾液と混ざった血液を纏ったものが、ゆっくりと咥内を侵していく。

「さっさとしろ。

グランはリュゼの髪を引っ張り、睨みつけた。怯えたように、彼女はゆっくりと口を開く。やがて喉奥までそれが到達すると、息苦しさからか、リュゼは嗚咽を漏らした。
彼は彼女の後ろ髪を掴んだまま抜き差しを繰り返す。息苦しさと気持ち悪さから彼女の目から涙が溢れるが、彼は気にせず楽しんだ。
やがてグランがフィニッシュを迎えると、リュゼは白い液体を吐きながら俯いた。

「歯を抜いて、オナホにするのは最高だったが…喋れねぇんじゃ拷問の意味がねぇな?なあ、リュゼ。お前を殺す日まであと2日だが、最期の時はアイツの死体の前で殺しながら犯してやるよ。

不気味に笑うグランの声が暗い部屋に響く。だがリュゼは何も言わず、ただ俯いているだけだった。気に入らなかった彼がまた掴みかかろうとした瞬間、扉をノックする音が彼を止めた。

「お楽しみのところ失礼♪グラン、話があるんだよねぇ。ちょっといいかな〜

ゆっくりと温和な声が、彼を呼びつける。チッと舌打ちをしたあと、グランはその声の主のところへ向かった。扉が開き、彼が出ていく。

部屋に一人取り残されたリュゼは、体から抜けていた血液がまた戻ってくる感覚に怯えていた。体が回復しては、グランによって傷つけられ…それを何度も繰り返した。
彼女の精神はもう壊れかけていた。死を望むように、彼女はグランに一切抵抗しなかった。最初のように反抗的な顔も、しなくなった。激しい痛みと、絶望が彼女を死へと誘っていく。だが、もちろんリュゼはその道へは行けない。主人であるモルセーゴが死なない限り、魔力を与えられるたびに生かされるのだから。

廊下を通る靴音が、遠くに消えて数十分が経った後。今度は軽いヒールの音が廊下に響き、部屋の前で止まった。ギィィと鈍く重い音が轟くと甘い香りを連れた女がリュゼの前に立ち止まった。

「リュゼさん…私です。ミュオです。…お口、洗いますね。

柔らかい手で頬を触られ、驚くリュゼだったが、虚ろな目で彼女を見て安堵したように目を閉じた。
ミュオは、小瓶に入った水をリュゼに飲ませ、しばらくしたのち地面に向かって吐き出させた。彼女はそのあとリュゼに薬を何粒か飲ませると、彼女の四肢を縛っていた鎖を下ろし、床に薄く広げられた布の上に彼女を寝かせた。ヒューヒューと浅く呼吸をするリュゼを見て、彼女はまた悲しい顔をした。

「グランさんは…今日はもう来ないです…また同胞狩りに行ってしまいましたから。しばらく戻ってこないと思います。多分、二、三週間くらい。

ギュッと、手を握りしめると、ミュオは立ち上がった。

「だからそれまでに、回復してもらいます。ごめんなさいリュゼさん…でもあなたならきっと…モルセーゴさんを復活させられる…そうすれば、彼も目を覚ます筈です。

廊下を軽いヒールの音が響き渡り、遠ざかっていく。リュゼはその音に少しばかり聴き入っていたが、薄れゆく意識の中で懐かしい匂いを感じた。


そしてしばらくの時が経ち、リュゼは重い瞼を開いた。
すると黄緑色の髪の男が柔らかい瞳でこちらを見つめているのにリュゼは気がついた。
いつのまにか生えそろった歯を見せながら彼女は男に問う。

「…監視か?ヘルベロト

男はそう聞かれると首を振った。

「俺はアリーシャに負けた。もうボコボコに再起不能にされちゃったんだ。だから、お前を手伝ってやろうと思ってね?
おっと、このことはグランには内緒だよ?

ヘルベロトは、にやっと笑うと手首をナイフで切り、滴る血液をリュゼの口元に持っていった。彼に詳しい理由も聞かず、逃すものかと吸い付くリュゼは、彼の手が完全に白くなるまで、あっという間に血液を飲み干してしまった。

「ははは、80%人間なんて嘘だね。君はれっきとした魔女属だ。さぁ、ミュオが待ってる。行きなよリュゼ。

壁にもたれながらも冷たい廊下を歩いていく彼女を、ヘルベロトは満足げに見つめていた。



厳しい岩肌を滴る水。それによって冷えた廊下を、ミュオはリュゼの肩を抱えて歩いて行く。しばらく歩くと、重く頑丈そうな鉄扉があった。リュゼを壁にもたれさせると、彼女は分厚いその扉を開く。
血生臭い匂いが広がり、リュゼは朦朧とする意識の中で、この部屋の中にいるそれが彼であることを知った。
モルセーゴは、目を閉じたまま動かない。両膝をつき、両手は釘で固定されている。関節の動きを封じる為か、無数の針が彼の体を貫いていた。大量の血溜まりが排水溝へと消えている。

「モル…

泣きそうな顔で、彼を見るリュゼ。ミュオは彼女から目をそらしながら言った。

「脳を突き破りましたので…もう動くことはないでしょう。心臓は動いていますが…もう彼は死んだと考えた方がいいと思います。
でもきっと、リュゼさんなら…彼を呼び戻せる。
あなたが彼から受け継いだ蝙蝠の魔女属の力が呼び水となって…

話の途中で、リュゼは重たい体を引きずり、両手で杖をついてモルセーゴのところへと歩いていく。動くたびに激痛に襲われるが、耐えながら一歩ずつ歩いていく。
ミュオはその様子を見守っていたが、すぐにこの部屋に迫り来る圧に気がついてしまった。鼓動がどんどん早くなり、体はすぐさま扉を押さえつけようと動いたが、扉は破壊され、破片が部屋の中に飛び散った。
吹き飛ばされ、彼女は床に転がる。リュゼはそれに動じずに、モルセーゴの肌に触れた。

「モルセーゴ、私だ…わかるか?

その問いかけに、彼は答えなかった。瓦礫を蹴飛ばしながら勢いよく歩いてくるグランは、リュゼの方へ向かっていた。ミュオが止めようと彼の前に立ちはだかる。

「もうやめましょう、グランさん。こんなのやっぱりおかしいです。あの人の言いなりになるなんて、そんなのグランさんじゃないです。

鋭い目で睨みつけるが、ミュオは震えながらも彼の前に立っていた。しかし、グランは無表情のままミュオを勢いよく蹴飛ばす。
激しく壁に叩きつけられた彼女は、頭から血を流しうなだれ、気を失ってしまった。

「邪魔しやがって。リュゼの処理を終えたら次はお前だ。裏切り者め。

リュゼは気を失ったミュオに気が付き、グランを睨む。彼はその腕を掴み、出口へと彼女を引きずった。何度か抵抗を試みるが、折れるほどの痛みに耐えきれず、おぼつかない足を気にすることなく部屋を出て、廊下を歩いていく。
途中、グランが何かをつぶやくと、廊下の岩壁が無数に突起し、後ろの通路を覆った。それは彼が次の部屋に入るまで続き、扉を閉めると同時に岩は鋼のように黒く変色し通路を塞いだ。

やがて到着した部屋の中には何もなかった。
いつもと同じ部屋のようだが、少し違う。ただ広く、湿った暗い部屋だった。リュゼは部屋の中に押し込まれ、バランスを崩して地面に倒れた。
グランが彼女に詰め寄る。少しずつ後退する彼女の首を、彼はその手で掴んだ。
ミシミシという音が響き、息苦しさに喘ぐ。背を壁につけ、足は何度も地面を滑っていく。

「お前はもうすこし遊ぶ予定だったんだが、ミュオのやつが邪魔してくれたおかげで予定が狂った。あまり趣味じゃないが、俺の力だけだとあいつに勝つには足りないんでな。

「くぅっつ…う…

リュゼは息苦しさを解消するために、首にかかる手を両手で押さえつける。目からは涙が何粒もこぼれ落ち、彼を睨みつける。

「じゃあなリュゼ。心配すんな、すぐにあいつと会わせてやるよ、俺の腹の中でな

彼はリュゼの心臓部へと指を突き刺した。彼女は瞳孔を開きながらまるで金魚のように口をパクパクと動かしている。それから数秒して口から血液を吐き出した。
首から手を離し、地面に落とす。彼はもうほとんど動かなくなった彼女に跨ると、突き刺した心臓をえぐり取り、よく噛み砕いて飲み込んだ。
それから腹を破り、艶の良い桃色をした内臓を引きちぎり、飲み込んでいく。胃に腸に腎臓…爪で腹を引き裂きながら彼は喰らっていく。
そして子宮に手を伸ばしかけた瞬間、爆発音が響き渡り、黒い影に覆われた怪物がグランの後ろに迫った。

「到着が遅かったな?モルセーゴ!



「おい!モルセーゴ!
今日こそお前を殺してやる!

それは今となっては懐かしい、威勢の良い声だった。またか、と心の中でなんど呆れたことだろう。
彼女は目の前に立ち塞がり、人差し指をこちらに突きつける。強気な瞳でこちらを睨みつけ、襲いかかってくる。
リュゼは、とても面倒な相手だった。

「おいまて!また逃げる気か!?

木に縛り付けた彼女が吠える。モルセーゴはため息をついて振り返った。

「決着はついたろ、もう関わるな。

「わたしはまだ負けていない!

聞かないふりをして、森の奥に消える。彼女の吠える声が森の音にかき消されるまで、歩いていく。
こんなやりとりが何十回、何百回と、あったのだ。なんて懐かしくて、暖かい思い出だろうか。
目を閉じて、微笑む。
冷たい闇に、彼は漂っていた。
それは、自分がまだ人属であった頃に、命を奪われかけたあの時に感じたものと同じだった。

育った環境が特殊であったためか、命を狙われることには慣れていた。毒を喰らっても、闇討ちに遭おうとも、退きはしなかった。ただ、弟と、自分たちを取り巻く者達のために堂々と生きていた。

だが、すぐにその日はやってきた。

権力を求める愚か者の使わした外道共の手によって、腹を貫かれたあの日。
血と泥に塗れ、傷む腹を抑えて走る様は、まさに無様としか言いようがなかった。
光のない森の中を走り、矢の雨を避け、必死に走る。
しかし、足に突き刺さった矢によって最期の瞬間は訪れた。
追手達の足音を聞き、下品なその姿を見る。毒の回った体はいうことを聞かず、首を落とされる時を待っていた。

混濁する意識の中、冷たい闇に飲み込まれた。その時、死にたくないと願ったのが、全部の始まりだった。

目が覚めるともう自分は人属ではなくなっていた。追手を皆殺しにしたあとは、なにも感じなくなっていた。

生きてはいるが、あの時確かに死んでしまったのだ。

居場所など何もかもなくなったことを知った。そうして魔女属になったあと、心には孤独だけが残った。
忌み嫌ってきた魔女属になった自分を求める者など何処にもいないのだ。弟や乳母のいる国などに帰れるわけがなかった。
同じ魔女属などに関わる気も毛頭なかった。

そうして永遠に死なない体で、冷たい闇の中を彷徨い続けることを、彼は選んだ。
そう、彼女と出会うまでは。

「死に…たくない…モルセーゴ…私は…

彼女が、死にかけていた時。彼は迷わずその手を取った。たとえ彼女が拒否しても、無理やりにでも生かすつもりだった。消えて欲しくないと、心から思っていた。

思えば、あの時から…
俺は彼女のことを愛していたのだろう。

冷たい世界に生きていた自分の頬を、暖かい手が触れた。
喜びは、とっくの昔に感じなくなったはずだったのに、彼女の温もりを感じた時から、忘れかけた心が戻ってきたようだった。

助けなければならない。
彼女を…奴に喰わせるものか。
俺の居場所を奪わせるものか。
愛するものを殺させるものか。

モルセーゴはゆっくりと瞼を開いた。

「ウウオオオ!!

彼は、大きく叫ぶと身体中に突き刺さる針を引き抜き、鎖を打ち壊した。流れ出した血液が逆流し、全身を黒い影となって覆っていく。
尖った耳は大きく肥大化し、体の全ては黒い毛に覆われる。大きな皮膜を広げた翼が部屋いっぱいに広がると、紅く光瞳はギラギラと外を睨んだまま、鋭い牙を見せつけるように大きく開けて吠えた。
打ち壊されていく拘束具の音に目が覚めたのか、頭から血を流したミュオは小さくか細い声でモルセーゴに懇願する。

「約束は守りました…モルセーゴ様…どうか…

ミュオの言葉に、モルセーゴは頷くこともなく、彼は風のように走り去った。ミュオは痛む身体を引きずりながら、彼の後を追う。4本の足で地面を蹴って岩壁を破壊しながら突き進む。凄まじい破壊音が鳴り響くが、モルセーゴは勢い衰えぬまま通路を塞ぐ岩を破壊していく。それは迷いなく彼女の場所へと向かっていた。
グランの仕掛けた岩が迫り邪魔をしてくるが、何度も振り払い、破壊する。やがて黒い岩がなくなり青い岩が見え、渾身の一撃を込めて撃ち抜いた。
そこには、床に倒れている大量の血を流したリュゼと、血にまみれたグランが立っていた。

「遅かったな?モルセーゴ!手遅れだぜ。もうこいつの核は俺の腹の中だ。

黒い影にまみれた太い鉤爪で、モルセーゴは間髪入れずにグランに襲いかかる。応戦するグランは、怪物の攻撃の瞬間を見計らって避け、彼から距離をとった。

「ならば、お前の腹を割いて全て取り出すだけだ。グランヴィニア。俺の女を返してもらおう。

低く唸るような声で、そう叫び、何度もグランに向かっていく。避けても流しても襲ってくる彼の激しい猛攻に耐えかねたのか、余裕だった顔を歪ませて、グランはまたもや彼から距離をとった。

「さすがは魔女属の長に並ぶ実力者の、真魔解放…こっちも解放しなきゃやられるな。
チッ…本当はここじゃ使いたくなかったんだけどなあ!

自らの腕を引き裂き、血を流す。グランは流れ出した自分の血液を口に含み、飲み込んだ。
モルセーゴは彼の様子を見ることもなく、突っ込んでいく。

「真魔…解放!

黒い稲妻がグランの体を走る。筋肉が隆起し、黒く変色して鎧となり、右手の金の鉤爪が伸びて向かってくるモルセーゴに襲いかかった。彼はすんでの所でそれを避け、グランの背後に回り込むと、首筋を狙って噛み付く。しかし、その一撃を70㎝もの長さのある大百足が阻んだ。モルセーゴは百足に噛みつき、引き千切る。そして蠢く残骸をかなたに放り投げると、グランから距離を取った。

「それは…リューグナーの眷属か

「そうだ、もう馴染んできた。あと数分もすれば俺のものになる。邪魔すんな、さっさとくたばれ!死に損ないがッ…

グランが距離を詰めてくる。モルセーゴは彼から遠のくこともせず、自らもまたグランに向かっていった。グランの攻撃を避けつつ、彼へ攻撃を加えるが、リューグナーの眷属である大百足が湧き出て、ここぞというときに限って邪魔をする。一度体制を整えようとモルセーゴが距離を取ろうとした時だった。

「逃がさねぇよ!

攻めあぐねている隙を突かれ、グランの一撃を喰らう。脇腹に、彼の金の鉤爪が肋骨をへし折りながら食い込んでいった。
だが、彼は、それ以上食い込まないうちにグランの腕を掴む。
予想通りだった。

「なにッ…

「お前は逃げた獲物を律儀に追いかけるタイプだ。リューグナーの力を持ったお前は、接近戦にかけては無敵になる。手数が多くなるからな。だが、それは攻撃を受けた場合だけだ。お前が攻めに転じたとき、リューグナーの力は協力しない。あれは自分が傷つくときにしか防衛しないからな。お前の動きを止めて、一撃で粉砕すれば何の邪魔もないということだ。

グランは本能的に危険を感じ取ったのか、すぐさまモルセーゴに持たれている腕を切り落とし、後退する。だが…足が動く前に、彼の鉤爪はグランの心臓を捉えていた。

彼の手は肉を裂き、骨を折り、柔らかい臓器を握りつぶした。そのまま壁にグランを叩きつける。だが、グランもやられるだけではなく、最後の力を振り絞り、モルセーゴに抗った。

おびただしい量の血と肉が舞い上がる。

その場に立っていたのはモルセーゴだった。

彼の体を覆っていた黒い影が消えていくと、バラバラになったグランの体の前で立ち止まる。
腹を突き破り、彼の胃を回収した彼は、リュゼの腹にそれを全て戻した。
そして、魔力を込めて彼女の体を元に戻すと、担いで、すぐさま天井に空いた暗い空に消えていった。

床に広がる人の形もない肉塊のみが部屋に残り、生暖かい血が床を流れていた。
そして、残された女は、体を引きずって部屋までやってくると、崩れた肉塊を抱きしめて涙を流した。
彼女の胸の中には、暖かい輝きが小さく揺らめいていた。


暖かい感覚が身体中を包み込む。くすぐったいが、とても落ち着く。先ほどまで感じていた冷たさがどんどん緩和されていくようだ。
やがて体の感覚全てが戻ってくる。彼女は懐かしい匂いによって目が覚めた。全身を包むそれは、見たことのある布だった。

「モルセーゴ…?

次に耳の感覚が戻ってきた。凄まじい風の音が耳をつんざく。そして、翼を羽ばたかせる音が一定の感覚で聞こえた。下を見ると、青々と広がる森が広がっていた。

飛んでいるのか。…ああ、そうか…私はグランに殺されて…それで…彼に助けられたのか。

リュゼは彼のマントに包まれ、抱きしめられたまま運ばれている。黒い影で覆われ、風になびく体毛を彼女はぎゅっと掴んだ。
彼女が目覚めたことに気がついたのか、モルセーゴは抱きしめている腕に力を込めてそれに応えた。そして、体制を整えると、彼は深い森の奥に着地した。…墜落したというのが正しいのだろうか。ひどい衝撃が二人を襲う。モルセーゴは、すぐに人型に戻ると、地面から起き上がり歩き出す。

「モルセーゴ、どうしたんだよ…っゲホゲホッ…

彼は何も言わずに彼女を抱き抱えたまま歩き出す。砂埃にまみれ、咳をするリュゼだったが、頬に垂れた雫に驚き、再び彼を見た。
頭から血を流している。それも大量に、だ。
彼の腕から離れようともがくが、それを物ともせず、彼は歩き続けてやがて洞窟の中に消えていった。

「おい!モルセーゴ?!離せ!おまえ、血が…きいてるのか!こら!もる……きゃあっ!?

彼女が言い切らないうちに、彼は彼女を投げた。ふかっとしたスポンジのようなものに包まれて、飛び跳ねる。モルセーゴはそのあとすぐに冷たい石床に倒れこんだ。大量の血液が地面に満ちていく。

リュゼはとっさに彼に駆け寄る。
ひどい熱と、出血だ。頭からの出血だけでなく、腹部からもおびただしい量の血が流れている。先ほどの墜落もこの怪我が原因だろう。

このまま地面に伏していると状態はどんどん悪化してしまう…

そう思った彼女はモルセーゴを抱えて、先ほどのスポンジのような場所に彼を引きずり、寝かせた。

彼は熱と痛みに喘ぎ、苦しそうな声を漏らす。リュゼは止血をするために、自分を包んでいたマントを破いてひも状にし、出血している箇所を巻いていく。時々強く巻きすぎたのか、彼は顔をしかめてうめく。慌てて直すリュゼの手は彼の血で塗れていた。
何度かやり直し、ようやく全ての箇所を止血することができたリュゼだったが、モルセーゴの顔は和らぐどころか、もっと厳しいものになっていた。
止血の次は、なんだったか…眷属コウモリ達から教えてもらったのはたしか…。

思い出したようにリュゼは飛び跳ねる。そしてすぐさま洞窟を出て、思いついた物を探し始めた。
途中にあった割れた陶器類の中から、底が割れてない物を抜き出し、綺麗な清流で水を汲む。

そして、彼女は慣れた足で獣道に入り、薄荷色に輝いている薬草を摘んだ。
帰る途中にあったまあまあ大きい赤い木の実を採り、急ぎ足で彼の元に戻る。少しだけ彼の口元に水を注ぎ飲ませた後、コウモリ達に教わったことを思い出しながら、薬草と赤い木の実を一緒にすりつぶす。

「ほら、飲め。

彼に話しかけてから、飲みやすいように首に手を添え、背中の間に足を入れる。彼はリュゼの作った薬を飲み、少しむせたあと再び横になった。少しだけ顔をしかめたあと、彼は表情を緩めて体の力を抜いた。作った薬が効けばきっともっと良くなるはずだ。
彼を心配そうに見るリュゼだったが、腹がぎゅるると鳴り、ため息をついた。
腹が減った。このままでは消費魔力が多くなる。モルセーゴの…、主人の、近くにいれば魔力の消費は緩くなるのだがそれも限度がある。無茶をしなければ自分で獲物を狩ることもできるだろうが、下手をすれば命の危機に陥ることも考えられる。
彼女が考えあぐねていると、ふと、眷属コウモリ達に教えてもらった魔力を使わずに食物を取る術を思い出した。

安全な狩りの方法…たしか、あれは…そうだ、木の枝を削るんだったか。

リュゼは、思い立ったように洞窟の外に飛び出す。
外は薄暗い森が広がっており、幸い材料にも獲物にも困ることはないだろう。さっそく記憶を頼りに良さそうな木の枝を物色し始めた。
重いとうまく扱えないが、軽すぎると殺傷能力が低くなる。
中間合格の枝をうまく見繕った彼女は次に地面に落ちている石を拾っていく。
できるだけ尖っているものがいい。壊れた時のことも考えて、いくつか持って行こう。
やがて、それらを集めると、リュゼは再び洞窟に帰る。
モルセーゴは先ほどより落ち着いた呼吸に戻っており、静かに呼吸をして目を閉じている。

眠っているのか、休んでいるのか。リュゼには分からない。だが、邪魔をしないほうがいいことはわかっていた。ちゃんと様子が見える洞窟の外で、先ほど拾った石で木の枝を削っていく。静かな森の中で、ゴリ、ゴリ、と行った音が響いていった。

「できた…これがモリか…?初めて作ったから、どうだろうな…。ちゃんと採れればいいが

小さく呟く。彼女は簡易ではあるがモリを作成していた。80センチほどの太い枝の先端を尖った石で削って作ったものだ。振り回しながら出来栄えと、作品の完成に喜ぶリュゼは、一度モルセーゴの様子を見てから、森の奥に消えていった。
そして数時間後、彼女は何匹か魚をモリに刺して戻ってきた。
身体中ずぶ濡れになったリュゼは濡れた犬のように身震いして、洞窟の中に入った。

火のはじける音が、洞窟の中に響いて消えていく。辺りはすっかり暗くなり、森はフクロウや虫の鳴き声で賑やかだった。
リュゼは、寝込む彼の額の汗を濡らした布で拭き取る。すっかり献身的になってしまった彼女だったが、それは朧げなあの記憶のせいであった。
思い出そうとしても、もう覚えていないが…ひどい痛みを感じていたことだけ、覚えていた。何度死にたいと思ったか…でも、もうそれだけしか覚えていないのだ。
モルセーゴが記憶を消す魔法をかけたのか、そんなことは知らない。知る必要もない。思い出せないなら思い出す必要もないことだ。
彼女は濡れた布を絞って、ふう、と息を吐いた。

「リュゼ…

弱い声が、彼の口から漏れた。バッと振り返り、モルセーゴに駆け寄る。今まで閉じていた瞳は薄くだが開き、その赤い瞳にリュゼを映していた。

「モルセーゴ…よかった。もう喋れるところまで回復したのか。喰えるか?今、魚を取ってきて…焼いてるところだ。

その問いに、彼は首を振った。自分の冷たい手に触れる暖かく柔らかい掌を握り返す。
彼はゆっくりと息を吸い込み、吐いた。深く紅い瞳が閉じていく。掌を握る力が弱くなる。その様子を見たリュゼは焦っていた。
これは、とんでもないことだ。彼の力が薄まっているのをリュゼは感じていた。

「モルセーゴ…おい、おい!

彼は死にかけている。
だが、彼女は自分にはどうしようもないことを理解していた。自分に何もできることはない。手は尽くした。助けを呼ぶのは難しい。自分一人では、夜の森で獣に襲われて喰われても、抵抗することさえできないだろう。
状況が悪すぎた。リュゼはモルセーゴの手を取って額の前で握り、彼女の瞳から雫が落ちる。その時だった。
木の枝を折る音が響き、リュゼは振り返った。洞窟の前に、誰かがいる。月夜を背にした暗闇は、中にいる二人を確認すると、ズカズカと洞窟の中に入ってきた。

この匂いは…人間だ!

「とまれ!

リュゼは片手に魔力を込める。威嚇するように人間と向かい合う。人間は一瞬動きを止める。

「人間め…何をしにきた。殺されたくなければ帰れ…!

「俺はモルセーゴの友人だ。彼のことを診せてくれ。医者なんだ。

いしゃ?なんだ、いしゃとは?驚き隙を見せたリュゼを通り過ぎて、彼は持っていた鞄を下ろす。止めようとする彼女だったが、それを止めたのはモルセーゴだった。彼はゆっくりと手をあげて弱々しく口を開き、リュゼの名前を呼ぶ。その様子を見て驚いた彼女は、すぐさま彼に駆け寄った。

「モルセーゴ、この人間は…

「彼の言っていることは、本当だ……心配しなくていい……

モルセーゴはそういうと、激しく咳き込んだ。人間は彼の口から出てきた血液を指で掬い、そして鞄から取り出した液体の入った小瓶に入れる。しばらくすると、小瓶の中の液体が激しく色を変え、紫色から変わらなくなると、人間はまた鞄の中から薬草の入った袋を複数出した。

「また変な毒をもらったんだね、君がダウンするたび治療する身にもなってほしいよ。
今回は、サソリの毒が強いな。どんなモンスターと戦ったんだい?ああ、喋らなくて結構。あ、ちょっとそこの君、そこの水をもらっても?

リュゼはキッと人間を睨むが…すぐさま言われた通りにひび割れた瓶に入っていた水を差し出す。人間は礼を言って受け取ると、袋に入った薬草を取り出し、石皿に入れて轢き潰し始める。その後水を投入し、薬草を布に入れ絞りだす。緑色の汁が陶器の器に満たされると、人間はモルセーゴを起こし、それを飲ませた。
彼が飲み終わると、男はふう、と一息つき、絞った布から薬草を取り出した。リュゼが簡易的に治療した傷跡に塗り込み、また布を巻き直す。そして不機嫌そうにそれを見るリュゼに一声かけた。

「彼の治療は君が?

男はこちら見ることはなく、問いかける。話しかけられた彼女は驚きながらも、小さく、ああ、とだけぶっきらぼうに返事をした。

「止血もちゃんとできていたし、君が調合した薬のおかげで彼の体力が落ちるのを防げた。ありがとう。彼を助けてくれて…。

ぷい、と顔を背ける。人間に褒められてもちっとも嬉しくないのだ、と言いたげな彼女は、立ち上がって洞窟の外に歩いて行った。

「あ、ちょっと、どこに行くんだい?こんな夜中に…

リュゼは振り返って男に言う。

「食料を、取ってくる。遠くにはいかない。

男は驚いた顔をする。火にくべられた魚がパチリと弾ける様を見て、少しだけ考えたあと、リュゼに提案した。

「なら、この近くにリンゴの木があるはずだ。赤い…この俺の手のひらくらいある果実だよ。
三つほど持ってきてくれ。栄養満点だからすりつぶせば、きっとモルセーゴも食べることができるだろう。

その言葉を聞き、目を丸くするリュゼは、すぐにムスッとした顔に戻り、そっぽを向いて森の中に消えてしまった。
男は、微笑んでそれを見送る。焚き火がパチパチと音を立てて燃え、舞い上がった火の粉が闇に溶ける。男は柔らかく、友人に話しかけた。

「いったいどこで、あんな可愛い子拾ってきたんだ?驚いたよ。キミも隅に置けないな。

「うるさい…


翌朝、男は日の登らない早朝から支度を始めていた。モルセーゴの隣でうずくまって寝ていたリュゼが目覚める。

「どこか行くのか?

鞄を持ち、男は、ずれた眼鏡をかけ直す。彼は、リュゼに向き直り、笑顔で問いに答えた。

「ああ、村に帰るよ。患者が待ってるからね。モルセーゴならきっと3日もあれば元気になる。キミもあんまり心配しなくていいよ…あ、あげた包帯と、今巻いてる布は一日置きに交換するんだよ?ちゃんと水場で洗って干してね。衛生面はちゃんとしないとダメだからね、じゃあまたね。

彼はそう言って重い鞄を持ちながら歩き始め、森の茂みに消えて行った。その様子を最後まで見送ると、リュゼはモルセーゴの元に戻った。

リンゴを、男からもらった器に入れてすりつぶす。匙を使ってモルセーゴの口元に運ぶと、彼は黙ってそれを食べた。まるで雛鳥に餌付けする親鳥のようだ。彼はゆっくり目を開けて、リュゼを見る。

「なんだよ、まずかったか?

「いや、まずくはない。…お前には、説明しておかないといけないと思って。

説明?なんのことだ?リュゼは少し考えて、思いついた。そうか、あの人間の男のことか。

「お前が人間と仲良しだったなんて知らなかった。

意地悪そうな顔をして、彼女は笑った。器を地面に起き、彼の側による。
薄く目を開いて、モルセーゴは語り始めた。

「仲良しになるつもりはなかった。ただ、懐かれただけだ。
俺が継承を受けて魔女属になった時、流れ着いたのがあの男の親がいた村だった。関わりたくなかったが…関わらざるを得なかった。
モンスターの群れに襲われて壊滅的だった村を助けてしまったんだ。
あいつらとの仲はそこから始まった。馬鹿だろう?当時の俺は、今よりももっとお人好しだったんだよ。

驚いた、モルセーゴが自虐するなんて。
リュゼは彼の横に寝転がり、その話を聞いていた。柔らかいスポンジのようなものが体を包む。すると、彼の指がリュゼの指を捉えた。
それをぎゅっと握りしめる。彼は力を込めることなく、ゆっくりと彼女の指に自分の指を絡ませた。

「あの男は…ウィルと言うんだが…彼が赤ん坊だった頃から俺は彼を知っている。人間の成長は俺達よりも早い…30年は経ったろうか…この体になってからは年を数えるのもやめたから、正確には、分からないな。

「ウィル、ねぇ。…ふぅん。お前は魔女集会にも滅多に来ない、孤立したやつだと思ってた。人間も、魔女も嫌いだと思っていた。

モルセーゴは、ふっ、と笑う。

「嫌いではないさ、人間にも魔女属にも深く関わりたくないだけだ。

そうか、とだけ、リュゼは言った。苦い気持ちを抱いてしまう。過去、強い者と闘いたくて仕方がなかった頃、彼を追い回しては、逃げられ、返り討ちにあったりしたときのことを思い出す。

…ああ、昔の事はあまり思い出さないようにしよう…。

耳が熱くなってようやく気がついた。だが、モルセーゴはそんな彼女に追い打ちをかけるように言った。

「言っておくが、お前は別だ。リュゼ。

心臓が跳ね上がり、顔が熱くなる。繋いでいる手を離そうとするが、今まで弱かった指を絡めている力が強くなっていて抜け出せない。
何を言っているんだ、と激怒して噛みつきたい気分でいっぱいになる。
ここは言い返さなければ。むず痒い気持ちに支配される前に!

「そうか、ふん…気を使わなくてもいいんだぞ。別に昔のことなんて気にしてない。気にするわけもないしな!

彼の瞳がリュゼを捉える。目が合ってすぐに彼女は目をそらした。鼓動はまだ速く音を立てて、胸の奥で響いている。
話題を変えよう。胸が破裂しそうだ。

「そ、そうだ…お前が歩けるようになったら、本来の家に…帰らないといけないだろう?魔力の消費を落とすためにも、食料を集めとかないと…

指をほどいて、寝床から起き上がろうとするリュゼだったが、モルセーゴは彼女の腕を引っ張った。

「きゃっ…!

柄にでもない声を出して、バランスを崩して彼の上に倒れこむ。素早く両手を寝床に着き、幸い病み上がりの彼を潰す事はなかったが…その体制は、リュゼの顔をもっと赤らめさせた。

先ほどよりももっと顔が近い。彼女は逃げなければダメだと、本能的に感じたが、なぜか動くことができなかった。

モルセーゴは、彼女がこれ以上逃げないように、手のひらを彼女の頬に添える。しかしその瞬間、リュゼは電撃が走ったように驚くほど俊敏に後ろに後退した。
まるで驚いた猫のように丸い目をした彼女は、そのまま急ぎ足で洞窟の外に出て行ってしまった。

手のひらに残った彼女の柔らかい頬の感触と、温かみが、ゆっくりと空気に溶けていく。
目の前には、乾いた鼠色の岩天井しか見えない。
モルセーゴはため息をついた。

それは、自分は何やっているのか…という呆れと、少しばかりの傷心によるものだった。

空気しか掴めない手を下ろし、痛みに耐えながらゆっくりと起き上がる、すると見たことのあるニヤケ顔が洞窟の外からこちらを覗いているのに気がついた。

「ウィル。帰ったんじゃなかったのか。

「お前が振られる様を見逃さなくて、よかったーっと思ってしまったよ。モルセーゴ、君のことが心配になって戻ってきたんだ。

…いや、本当は忘れ物を取りに来たんだがな!
まあまあ、気を落とすなよ。な?てっきり俺は君たちはもうラブラブなツガイなんだと思っていたが、まだまだ程遠そうだな?ははは!

笑いながら彼は、洞窟のそばに置いてあった自分用の合羽を手にする。そして、モルセーゴの近くに座り込んだ。彼は不機嫌な顔で友人をにらむ。しかし、ウィルは気にせずにモルセーゴの体を観察し始めた。

「なるほど…薬はちゃんと効いているようだ。やっぱり効きが速いね。魔女属ってのは。
この調子なら、今日一日安静にしてれば、明日には動けるようになるだろう。

血が滲んだ包帯を取り替えながら、鼻歌を歌うウィルに、モルセーゴはため息をつく。

「しばらく村から出るなと、お前たちにも警告していたのに何故出ている?

「そりゃ脅威が去ったって知らせが来たからに決まってるだろ。ほら、この前言ってた鴉の…

クローか…あいつめ。モルセーゴは顔をしかめる。だが、脅威が去ったとは一体…
そう考えていると、ウィルが察したのかまた話し始める。

「なんでも、グラン…なんとかってのが倒されてその仲間も全員散り散りに逃げたらしい。あ、そうだ、あの人もお前を探してたから、帰り際にそこらにいた鴉に報告したが…悪かったか?

モルセーゴは首を振る。ウィルの言葉は間違いないだろう。クローに伝えたのなら、向こうは向こうで上手くやることだろう。問題は、こちら側だ。

「ウィル、俺たちは明日ここを発つ。また村に何かあれば家に来い。それと…リュゼのことだが

ウィルはニヤリと口を歪ませる。この男は…何をそんなに嬉しそうにしているのやら。モルセーゴは呆れた顔をした。

「リュゼちゃんね、あの子。かわいい名前だな。彼女がどうかしたのか?

ため息をつく。しかしウィルは気にせずに笑ってモルセーゴに話しかける。しかめた顔を解かずに、彼はウィルに言った。

「リュゼは、元魔女属だ。訳あって眷属契約を結んでいる。魔女属としての力は残っているが、ほぼ人間だ。
彼女は、人として生きた経験が少ないから、今までお前たちには紹介しなかった。

「お前が恥ずかしかったからじゃなくて?

「いい加減にしないと、口を裂くぞ。

「ははは、悪かったよ!もう言わないって!

ウィルはすこしだけ笑ってから、真剣な面持ちになり、モルセーゴの話を聴きだした。
モルセーゴは目を伏せながら、彼女のことを話し始める。

「彼女も、かなり昔に比べて大人しくなった。お前が現れた時も、かつての彼女ならすぐさま攻撃していただろうが…初対面の人間に大人しく指示に従うようになっていた。かなりの成長だ…。だから、近いうちに村に連れて行こうと思っている。

ほお〜と、言って、ウィルは考え込んだ。その様子を見て、モルセーゴは沈黙する。すると彼は慌てたジェスチャーを交えて話し始めた。

「ああ、誤解しないでくれよ!嫌な訳じゃないさ。君の眷属である限り安全性は保証されてる。彼女も素直じゃないが、とてもいい子そうだ。君の相方ならみんな喜んで受け入れる。大歓迎さ!
ただ…すこし心配なのは、彼女自身が、僕らを受け入れることができるか、だよ。
魔女属は…長い間人間に迫害されてきた。

魔女属の長が人々の信用を勝ち取った今の時代…人の考えもすこしずつ変わってきているが、今でも硬い考えの連中はいる。
僕らの村は君の活躍もあって、幸いそんなお堅い考えの奴はいないけれど、双方が許しあわないと僕らはいつまでたっても前には進めないだろう。

モルセーゴは、なるほど、と短く言って深く息を吸い込んだ。確かにその問題は俺たちが考えたところでどうしようもない。彼女自身が選択しなければ。
モルセーゴが深く考える前に、ウィルはにこやかな表情を浮かべて言った。

「でもな、色々言ったけどな?心配しなくてもいいと俺は思ってるんだぜ。彼女、賢いから大丈夫さ。君の治療も俺が来る前は彼女がしてたんだぜ?見事なもんだったよ。後でちゃんと感謝しとくんだぞ?
お前が死んだら自分の命が危ないからって理由もあるだろうけど、それだけじゃないぜ、あの顔は…思い切りお前を心配してた顔だ。
つまりだな、思いやりってのがあるってことだよ。彼女にはさ。ならきっとうまくいく。愛情を持ってるならきっとな……おっと?

話の途中で、ウィルは洞窟の外に向かって走り出す。彼はしばらく空を見上げた後、モルセーゴの元に素早く戻ってきた。

「長話してる場合じゃなかった。すまないモルセーゴ。俺は帰るよ。かなりの大雨が降りそうなんでね!

「ああ、…ウィル、時が来たら…よろしく頼む。

彼の言葉に、ウィルはにっかりと笑って頷く。彼は合羽を羽織りながら急ぎ足で洞窟を飛び出した。
まったく…せわしなく、騒がしい男だ。彼を見送ると、モルセーゴは口元を緩めて目を閉じて笑った。

リュゼはその数分後に雨とともに帰ってきた。

両手に抱えた古くてボロボロの籠の中には、雨に濡れてキラキラと光を反射する果物がたくさん入っていた。彼女は濡れた髪を搾り、洞窟の入り口の中で、外の様子を見る。

ひどい土砂降りだ。果物を採っているときに降られなくてよかった。きっと滑って上手く木にも登れなくなっていただろう。
彼女はため息をついて、洞窟の奥に向かう。

奥はその入り口に比べて広く、ちょうど中心ではオレンジ色に輝く火がメラメラと燃えていた。そのすこし奥にはスポンジのような寝床があり、モルセーゴが寝ている…はずだった。

「も、モルセーゴ!?お前…

驚いた彼女は焚き火の方を見る。そこには、木でできた古い椅子に座り、薪をくべている彼の姿があった。彼の腕に巻いた包帯が、光に照らされて白く反射する。リュゼは彼に近づいた。

「もう体はいいのか?

その質問に対して、モルセーゴはああ、とだけしか答えなかった。沈黙が二人の間を流れる。リュゼは安堵したように息を吐いた後、近くにあった石を焚き火の前に置き、その上に座って暖をとりはじめた。焚き火の音がパチパチとだけ響いていく。先に沈黙を切り裂いたのはモルセーゴだった。

「明日、調子が良ければ元の家に帰る。準備しておいてくれ。

「わかった。魔力はまだ半分くらいある。採ってきた果物が沢山あるから、腹が空くこともないだろう。いつ出発する?

その問いに、モルセーゴは答えない。彼女が疑問を顔に浮かべていると、彼は立ち上がった。

彼を見上げるリュゼ。彼は沈黙して彼女を見るが、そのまま何も言わずに寝床に向かって歩いて行った。リュゼは立ち上がり、彼についていく。

「なんだよ!何か変なこと言ったか?モルセーゴ!おいまて!こら!止ま…

ぎゅむっ…と、彼女の言葉通りに立ち止まった彼の背中に顔を打つ。鼻を赤くしながら彼を睨むリュゼを、モルセーゴは向きを変えてすぐ抱きしめた。
驚いて固まるリュゼ。モルセーゴは気にせず彼女を抱きしめる力を強めていく。

「ばか、苦しい、苦しいって…

ばちばちと、彼の背中を叩く。圧迫され気管が狭くなったからか、彼女の声は弱かった。気がついた彼は、すぐさま抱擁を緩める。濡れた彼女の髪が服を濡らし、すこし冷たい。
抱擁を解くと彼は瞳を伏せ、ぽつりと呟いた。

「愛している。

その言葉を聞いて、リュゼは驚いた表情をする。次第に耳と頬が赤く色づいた。恥ずかしそうに、モルセーゴは、目を背けた彼女をもう一度抱きしめる。

リュゼは、観念したようにため息をつくと、抱擁を返した。彼の手が彼女の首筋を優しく包み込むと、ゆっくりと唇を重ねた。舌を絡め、息苦しさに甘い吐息を漏らす。
森を濡らす雨は止むことなく、全ての音をかき消すように降り続けた。


雨露が残る草木をかき分け、獣道をたどっていく。リュゼは果実をかじりつつ、先頭を行くモルセーゴの後ろを歩いて行った。
少しだけ首筋が痛む。彼女の首筋には何箇所か赤い傷があった。昨日の夜に彼に噛まれた所だ。コウモリの魔女属だからなのか、顔に似合わず愛情表現が野生的なことに、少しだけリュゼはムカついていた。モルセーゴは彼女が睨んでいることも気に留めず、森の奥へ進んでいく。
まったく、夜とは別人だ。リュゼは顔をしかめながら歩いていく。昨日のことを思い出して、少し頬が赤くなるが、彼女はかき消すように首を振った。その時だった。
足元が滑りバランスを崩す。坂の下にはたくさんの岩が転がっている。これはやばい。近くの木を持とうとするが、手が届かなかった。痛みを覚悟して落ちようとしたその時、手を掴まれて引き戻される。

「雨と苔で滑りやすくなっているから気をつけろと、少し前に言ったはずだが?

顔が近い。リュゼはムッとした表情をした。お前が昨日あんなことを言わなきゃ…と、言ってやりたかったがぐっと堪えて、彼女は礼を言って彼から離れた。モルセーゴは疑問も浮かべず、リュゼが無事であることを確認すると、スタスタと先を歩き始めた。

愛してる。
その言葉が昨日からずっと頭の中をぐるぐると回っている。なんなんだ、一体。
彼からそんな言葉が出たことも驚きだが、その言葉に動揺する自分にも嫌気がさした。これは眷属コウモリたちが教えてくれた、人属特有の恋愛話にでてくるアレだ。つまり、意識してしまっているのだ。
リュゼはその想いを振り払うように自分の頬を両手で叩き、彼の後ろを歩いていった。

しばらく歩くと、見覚えのある道が見えた。モルセーゴは少し先で、時々後ろを見てこちらの様子を見ている。心配しているのだろう。だがその行動はリュゼをイラつかせた。先程のようなヘマを、二度とするものかと、リュゼはまたムッとした表情をする。
その表情を見て安心したのか、モルセーゴは少しだけ口元を緩ませ、前を向いた。
つる草をかき分け、進んでいくと家が見えた。

木々が覆う空がぽかんと見える、青々と繁った草が広がった空間。眼前に見えるのは高さ50メートルはある岩壁だった。大きな岩が階段のように点在し、壁や岩にはたくさんのつる草が覆いかぶさるように生い茂っている。
ここが、モルセーゴの家だ。

家と呼ぶには相応しくない、一見ただの壁だが、これは表向きの姿である。モルセーゴは膝丈まである細長い草をかき分け、岸壁の前までやってくると右手を壁につく。すると、壁が液体のようにどろりと溶け出し、右手を避けるように二つに広がった。大きく開いた穴の中へ二人は入っていく。
ひんやりとした洞窟の天井には黒い塊が無数にぶら下がっていた。魔力を節約するために眠っている眷属コウモリ達だ。リュゼはそれを見上げながら進む。かなり家を空けてしまったが、彼らはちゃんと生きているのだろうか。そのことだけが心配だったが、彼は何も気にせずに奥に進んでいった。
坂道を登り、リュゼの部屋に着く。白い毛玉がベットの上で丸くなっているのを見ると、モルセーゴはそれをむんずと掴んだ。

「シャルル、起きろ。帰ったぞ。眷属達を全員起こせ。

白い毛玉は、その声を聞くとびくりと飛び上がる。そして自分をながめる二人をキョロキョロと眺めて、状況を理解したのか急いで飛んでいった。
ベットの上も机の上も、長い間留守にしていたからか埃が積もっている。彼女が起きたことを確認すると、モルセーゴはリュゼの部屋から繋がった自分の部屋への廊下に消えていった。
彼が過ぎ去っていく、その様子をぼーっと眺めていると、彼が振り返る。

「どうした、来ないのか。

彼は静かにそう言った。リュゼは驚いたように目を丸くする。自分の部屋がここだから、彼の部屋までいこうとは思いつかなかった。少し悩むリュゼに、モルセーゴは続けて言う。

「眷属達はすぐに全員目覚める。お前の部屋は全部の部屋の通り道にあるから、騒がしいぞ。羽ばたきが降り積もった埃を舞い上げる。

モルセーゴは、手のひらをリュゼに差し出す。眉を下げ、考えるリュゼだったが、彼の考えに賛同しその手を取った。
緩い坂道を登っていく。すると木のドアが二人を待ち構えた。彼はドアノブを掴み、部屋に入っていく。リュゼもそれに続いた。
広い部屋の真ん中に、きちんとベッドメイクされた白いベットがある。天井からは淡い光が差し込んでいた。
彼は、リュゼが彼の治療をするために引き裂いたボロボロのマントを壁に掛け、ベッドに座り込んだ。モルセーゴは、ブーツの紐をほどき、靴を脱ぐ。そして包帯まみれの体を晒すように、上半身の服を脱ぎ、ベットに倒れこんだ。
リュゼは、ベットの縁に座り、彼の様子を眺める。長時間歩いたからか、傷口が開き、白い包帯は所々赤く滲んでいる。
右腕で、目元を覆う彼の姿は弱々しい。眷属コウモリ達には、見せたくないのだろう。深く息を吸って、吐く。リュゼは白く柔らかい手で彼の頬を優しく触った。

「包帯を変えないと。またあの医者の厄介になることになるぞ。

深く赤い瞳が、ゆっくりと瞬きする。彼は何も言わず、ただベッドから離れて部屋の外に出ていく彼女を、ぼやけていく視界で捉えていた。

そして、再び目が覚めたとき、彼は体の上にのしかかる毛玉達に囲まれていた。柔らかい毛が肌に当たる。少し暖かいそれは、モルセーゴが目覚めると一斉に彼に襲いかかった。息苦しさに、次々とせめぎよるコウモリ達を腕でつかんで遠くに投げつける。彼はいつも通りの無表情で、集まってくる彼らを投げ続けるが、再開喜び主人の声も聞こえない眷属達の猛攻に観念したのか、眷属達のふわふわとした毛玉を乗せたまま降参かというように大の字で仰向けになった。
早く終わってくれという表情のモルセーゴを見て、思わずリュゼは吹き出してしまう。

「みんな心配していたんだ。私も見つかった時はそうされたよ。飲むか?

そう言って、片手に持っていたジュースをモルセーゴに差し出す。彼は黒い毛玉の布団の中から起き上がると手を伸ばし、それを受け取った。すぐに飲み切り、開いたグラスをリュゼに差し出す。

「どのくらい寝ていた?

「2日だ。お前が貯めていた血液がまだ残っていたから、体に戻しておいた。調子はどうだ?

首をゴキゴキと言わせて、肩を回す。今までよりはるかにマシであることを、モルセーゴは感じ取っていた。キーキーとなく眷属達が占領している寝床から降りる。手を何度も握って感覚を確かめた後、モルセーゴは眷属達を睨んで指を鳴らした。その瞬間、ものすごい勢いでコウモリ達は部屋の外に消えて行った。あまりの風圧に髪が乱れる。少し整えて、リュゼはため息をついた。

「ひどいやつだな。少しくらい労ってやろうとは思わないのか?

「甘やかすのは得意じゃない。お前もよく分かってるだろう。…風呂は沸かしてあるのか。

その言葉にリュゼはこくりと頷く。彼は彼女をじっとみた。どきりとする。こいつは、まさか…。そう思った彼女の不安は、現実になった。彼はリュゼの反応を見ると、ドアの外へ歩いていく。もちろん、彼女の手を掴んだままだ。リュゼは彼の行動に驚き、足を止めた。

「どうした?

「いや、どうしたもこうしたもないだろ!

モルセーゴは首をかしげる。本当に理解していないようだ。彼女は、彼の様子を見てため息をつき、眉を釣り上げて言った。

「な、なんでお前と一緒に風呂に入らなきゃならないんだ?入るなら一人で入れ!

その言葉に、モルセーゴはなにを今更という表情を浮かべた。手を振りほどこうとするが、彼の手は断固として彼女の手首を握っている。少し間を開けて、モルセーゴは真面目な表情をして言った。

「お前の体の具合を見ておかないといけない。
寝床では行為に夢中で、お前の身体の全てを明るい場所で見れないからな。それが理由だ、何か問題が?

彼が言い終わった瞬間、静かな部屋に、バチンという音が響き渡った。


暖かい湯に包まれて、リュゼは深く息を吐く。白い湯気が天井に登り、洞窟の天井に付着した水滴がポタポタと落ちていく。肩に落ちた冷たい一滴に驚くと、彼女は頭だけ出してお湯の中に沈んだ。
少し離れたところで水音がする。リュゼは訝しげにそちらを見た。浅黒く光る肌を風に晒し、彼はこちらまで移動してくると、彼女の近くに座り込んだ。目を合わせないリュゼを気にせず、彼は話し始める。

「リュゼ、先ほどの件だが。言葉が足りなかった。反省してる。

驚いた、あいつが反省だって?じっと、モルセーゴを睨む。

「グランに攻撃され、お前の身体はボロボロになった。魔術による縫合と蘇生を行ったが、うまく機能しているのか確かめたかっただけだ。けして、性的な意味ではな…

モルセーゴが最後まで言う前に、リュゼは彼の顔に水をかけた。水は彼の顔を滴り落ちていく。ざまあみろと、にやけるリュゼだったが、彼女の期待に反するように彼は表情を崩すことなくじっと彼女を見つめていた。
なんだよ、その顔は…リュゼは彼の変わらぬ態度を見ると、またもや顔をしかめて彼を睨む。

「わかったよ!!見せればいいんだろ!見せれば!

ばしゃあ、と勢いよくお湯の中から出る。彼女は、ふん、と鼻から息を吐き、腕を組んだ。

彼はしばらく彼女をみていたが、湯から出て彼女の側に立つと、気になるところがあったのか、彼女の柔らかい肌を撫でた。ゾワゾワとした寒気と、少しの快感に襲われながら、リュゼはびくりと体を震わせる。ふと、彼の手がリュゼの腹の前で止まった。

「どうした?何かあったか?

モルセーゴは、何も言わずにゆっくりと腹を撫でる。くすぐったさにリュゼはふふ、と笑いをこぼした。柔らかい肌を滑る手は、しばらく腹部を円状に撫でると、急にピタリと止まった。どうしたのか、と疑問に思い彼女が彼の表情を見ると、彼は物思いにふけっているように、ボーっとしていた。リュゼがもう一度モルセーゴに尋ねると、彼はハッとした顔をして言った。

「接合部分はうまくいっている。何も問題ない。心地よくてつい触ってしまった。もういいぞ。

彼女は疑問の表情を浮かべて、それから湯船に浸かる。モルセーゴは、リュゼから離れると、先にお湯から上がってしまった。
なんだかわからないが、気が済んだということだろう。リュゼは適当に納得すると、目を閉じて深呼吸をした。

どくり、と、風呂上がりだというのに変な汗がにじみ出る。モルセーゴは、下半身に巻いていたタオルを取ると、指を鳴らして一瞬で通常の服に着替えた。
拳をぎゅっと握りしめる。少し動揺してしまった事を、彼女が気づいてないといいが。

モルセーゴが動揺を隠せなかった理由は、ひとつだけだった。それは彼女の魔力の貯蔵が衰えている事だ。
先程腹部を触診した際、発見したのだが、これは彼ら魔女属にとっては死活問題に当たる。

というのも、魔力の貯蔵が低いということは、魔法を使用する事が以前より難しくなるというわけである。彼女の現在の貯蔵率は、眷属契約を成した時より4割低減している。
つまり、一般的に考えると、魔力の補給を行う回数が増えるというわけである。だが…彼女の場合は少し違った。
逆に、もうその必要さえ、無くなってきているのだ。

彼女の魔力貯蔵は、4割低減している。だが、彼女の魔力消費は燃費が悪く、前回よりも魔力補給を行う回数は減っているのだ。
…つまり、どういうことかというと、リュゼは今までよりもさらに、人間に近づいてしまっているのだ。

由々しき事態だ。彼女が人間に近づいたのは、グランからの攻撃による魂体の損傷が原因だろう。
このまま人間化が進めば、彼女は命を落としてしまうかも知れない。たとえ眷属契約を結んでいても、彼女の不死性は、彼女が継承したリューグナーの欠片によるものが大きい。それが効果をなさないということは、死に近いギリギリの状態を保てなくなるということなのだ。

魂体の能力低下を防ぐ。もう二度と、彼女を危険な目に合わせない。その為にも…彼女には彼らとの交流を始めてもらわなければならない。
焦ってはいけない、確実にしなければ。

モルセーゴは、考えをまとめた後すぐに浴場を出た。リュゼはそのあと空っぽの着替え室で風呂場でのモルセーゴの様子を思い返していた。

バルコニー。肌寒さが残る外の空気を吸って、吐く。彼の息は白く、星空に消えていく。リュゼは温かい飲み物を持って、彼に差し出した。モルセーゴはそれを受け取り、一口飲む。温かいため息が、風に乗って消えていく。

「人間たちが暮らす村ってのは、この拠点の近くにあるのか?

モルセーゴは頷いた。眼下に広がる森林を指差し、道を辿って説明する。彼らの住処から、そこまでの距離はない場所に村はあった。ちょうど、白い煙を吐く煙突のようなものが森の中から見える。

「人間の村…人間とあまり接した事がないから、あの時は本当に驚いた。それに、ウィルは私が威嚇をしても動じなかった。あの村の人間は、みんなああなのか?…くしゅん!

モルセーゴはリュゼの腰に手を滑らせ、自分の方に引き寄せる。マントの中に入るように催促すると、リュゼはそれに従った。

「彼は患者を見つけると、たとえ自分の命が危なくても進んで患者を助けようとする。あれは奴の性格だな。あの村の他の人間は威嚇されれば警戒するだろう。

リュゼは、モルセーゴの体にひっつき、小さくそうか、と呟いた。

「心配しなくてもいい、彼らとの交流は難しいものでもない。少しづつでいいさ。焦る必要はない。

暖かい。夜の風が少し強くなっていく。温度が空気に溶けていく前に、モルセーゴはリュゼを連れて部屋の中に入った。彼女をベッドまで誘導すると、ベッドの前で立ち止まる彼女の頬は赤く色づいていた。触ると冷たくて柔らかい。
やがて、柔らかいベッドの中に入ると、リュゼはすぐに寝息を立て始めた。
モルセーゴはしばらくそれを眺めていたが、何かを思い出したように立ち上がると、部屋を出て、廊下を歩いていく。
玄関まで来ると、開いた入り口の床に黒いカラスがいることに気がついた。
カラスは、丸くまとめられた手紙を咥えており、モルセーゴがそれを受け取ると、闇に解けるように消えていった。
彼は廊下を渡り、部屋まで引き返すとその手紙を読み始めた。

「これから話せるだろうか。

彼は手紙をくしゃくしゃとまとめ、パチンと指を鳴らした。玄関の扉がガタンと開き、極寒の風を招き入れる。すると、黒い羽毛にまみれた塊が床に踏み入る。それは閉まる扉とともに、自らを包んでいた羽毛をしまい込み、二本の足でゆっくりと廊下を歩いていった。
やがて、部屋の中にたどり着くと、にこやかに一礼した後、この住処の主人に挨拶をした。

「ずいぶん急な訪問だったな。クロー。

モルセーゴは、コーヒーを飲みながら椅子に座ってくつろいでいる。暖炉の火がパチパチと音を立て、薪が音を立て崩れる。
クローは、モルセーゴと向かい合わせになるように椅子に座ると、笑顔を崩さずに話し始めた。

「すまないね、リュゼも寝付いたし、いいかと思って。本当は彼女も招いても良かったんだけど。

早くしろ、と言わんばかりのモルセーゴの顔を見て、クローは頷いた。そんなに彼女と一緒に寝たいのか、と心の中で笑う。眷属コウモリ達が用意したコーヒーを飲みながら、クローは話し始めた。

「君がグランを倒してくれたおかげで、デッドリーウィッカ達は撤退したようでね。
こっちも、何名か怪我人が出たり、死者間際の奴が出たけど…死亡者ゼロだ。めでたいことに。オルヴィエが君にお礼がしたいっていってたよ。同盟への復帰も、許してくれるそうだ。

「ふん…それはありがたい話だ。だが、彼女はわかってるのか?奴らは撤退しただけだ。リーダー格のグランが死んでも、再結成していつでも立て直せる。それに、俺も奴を仕留めた時にかなりのダメージを負った。回復には時間がかかる。

クローはモルセーゴの話にうんうんと相槌を打った。

「それはもちろん把握している。リュゼのこともだ。彼らが次に動き出す前に、俺たちも戦力を整えなきゃならない。
おそらく、数週間もすれば次のサバトが開かれるだろう。次の方針はその時に決定する。モルセーゴ、君はこのままリュゼとともに待機しててくれ。また戦いが始まりそうなら、すぐに召集がかかると思うから。

明け方の空に黒い雲が、鳴き声をあげながら空の果てに消えていった。モルセーゴはそれを見送ると、扉を閉めて部屋の中に入った。
リュゼはまだスヤスヤと寝息を立てている。彼は少しだけ微笑むと、彼女の頭を優しく撫でた後、その隣に潜り込んで目を閉じた。


ひどい土砂降りが降り始めた。リュゼは黒雲に覆われた空をにらみながら、眷属コウモリたちと一緒に洗濯物をしまいこむ。
全て取り込んだ後、少し濡れたものと乾いているものに分け、器用に畳んでいく。全てたたみ終え、ふう、と一息つくと、白いコウモリのニアが目の前に飛んできた。

「リュゼ様、洗濯物を回収いたしますね。
暖かいお紅茶をベルナーが淹れますので、しばしお待ちを。

「ありがとう。

少し微笑んで礼を言うと、ニアは一礼し、洗濯物を持って廊下の奥に飛んで行った。
今の季節は春…もうすぐ夏がやってくる。季節が変わる影響なのか、最近は雨が頻繁に降る。
崖崩れが起きやすい時期だ。ああ、そういえば、この前東側の道も崩れてしまっていたな…
この土砂降りでは、またどこかの道が崩れるだろう。リュゼはそんなことを考えながら、目の前に運ばれてきた紅茶を一口飲んだ。

「…!

バッと、窓の外を見る。給仕係のベルナーは驚いて飛び上がった。リュゼは気に求めずに紅茶を置いて、椅子から立ち上がり、窓の近くに立った。
外は激しい雨の音が鳴り響き、遠くでは雷鳴が轟いている。
真剣な表情で、外を見つめるリュゼに、ベルナーが話しかけようとした時だった。

「たすけて!

リュゼは、今度こそ確かにその声を聞き取った。ベルナーの制止も間に合わず、壁にかけてあった合羽を羽織り、彼女は家の外に飛び出した。
しばらくウロウロとし、困惑していた彼だったが、眠そうな目をこすり、部屋の中に入ってきたモルセーゴを見ると、今さっき会ったことをすぐに報告した。
しかし、またもやひどい強風に煽られて、ベルナーは目を回して机の上に転げ落ちた。モルセーゴもまた、最後まで彼の話を聞かずに外に飛び出していったのだ。やがて雨の音だけが部屋に響きわたる。目を回したコウモリだけを残して。

リュゼはただひたすらに、その声がした方向に走っていた。
いつもは穏やかな大河は、雨の影響で茶色い濁流になり、川の付近にあるものすべてを飲み込んでいく。霧霞むその場所で、リュゼはまた耳をすませていた。もう飲まれたか…?それとも…そう彼女が思っていると、もう一度その声は聞こえた。

「だれか!

今度は近い!
下流へ向かう途中の岩につかえていた大きな流木がバキバキと音を立てている。
声の主はそこにいた。
上半身は水に浸かったまま、なすすべもなく助けを求める女の姿がそこにあった。

リュゼは、助走をつけて勢いよくジャンプすると、濁流に飲まれていない岩場に着地した。トントンと、軽やかな足取りであっという間に女が必死に捕まっている今にも分裂しそうな流木の場所へとやってきた。
そして、器用に流木の上を歩き、女に手を差し伸べる。

「おい!お前!さっさと掴まれ!

驚いたように目を丸くする女だったが、彼女は藁にでもすがる思いで、冷え切った手を伸ばし、リュゼの手を掴んだ。その瞬間、流木が最後の悲鳴をあげて分裂した。リュゼは一瞬で女を抱きしめたまま流木を蹴り上げ、岩場に着地する。リュゼは、寒さに震える女を抱きしめたまま、流木がシュレッダーにかけられる様を見つめていた。

「リュゼ!

聞き覚えのある声に、リュゼは振り返る。
浅黒い肌に、尖った長い耳。彼は、ずぶ濡れになった体など気にも止めずに、少し不機嫌そうな顔で彼女達の目の前に現れた。その様子を見ると、リュゼは顔をしかめて言った。

「モルセーゴ!なんでお前が…
まだ寝てたはずじゃ…

リュゼがその先を話そうとした瞬間だった。抱きしめていた女の子の体が急に重くなる。とっさの状況に焦ったリュゼは体勢を崩してしまった。だが、幸いにも水の冷たい感覚には襲われなかった。モルセーゴが、彼女の腕を掴んで引き寄せたのだ。

「気をつけろ、リュゼ。いくらお前でもこの流れでは体がバラバラになるぞ。

「おい、おい、大丈夫か!?

リュゼは話を聞いていない。モルの声など聞こえないほど、女の容態が変わったことに焦っているようだ。先ほどとは違い、目をつぶったまま動かない。
リュゼはモルセーゴにすがるような目を向ける。彼は、その様子を見てため息をつくと、再び不機嫌そうな顔に戻った。女を岩場に寝かせると、首筋を触る。次に口元を触り、何かを確信すると、彼女を自分のマントで包み始めた。

「だめだったのか…?

弱々しく聴くリュゼに、モルセーゴは首を振って言った。

「ただ気を失っただけだ。死んでない。体温が下がって衰弱しかけているから連れ帰って、温めて様子を見る。

彼は、気を失った女をマントに包み終えると、飛んできた二匹の眷属コウモリに、彼女を任せた。リュゼはじっと、その姿が雨霧に消えるまで見つめている。モルセーゴは、その様子を見てため息をつくと、リュゼの手を掴んだ。驚いた彼女の瞳に、彼が映る。

「俺たちも帰るぞ。

リュゼは、少し間を開けて頷くと、彼の横を歩き始めた。
絶対に怒られる。あれはそういう顔だった。深くため息をついても、その時は当然やってくるものだった。



「それで?何故飛び出したか、理由をきかせてもらおうか。

家に帰って早々、彼はリュゼに向かって質問を始めた。だが、リュゼは濡れた衣服を脱ぎながら、タオルで体を包んで返事もせずに風呂に入っていく。すかさず彼が止めた。

「おい、逃げるな。

「うるさい!あとででもいいだろ、その話!
体が冷えてるんだから、私も温まりたいんだ!

リュゼは振り返ってそういうと、バタンと扉を閉めてしまった。彼は目を細めると、遠慮などなく自分も服を脱いでズカズカと部屋の中に入る。

「なんでお前入ってくるんだよ!

「うるさい、俺も体が冷えたんだ。少し黙ってろ、響くだろ。

その答えにギャーギャーと怒鳴り始めるリュゼなど気にせず、モルセーゴは湯船に浸かる。
そして数分後、彼は、のぼせた彼女を抱きかかえて風呂場から出て行った。
通りがかった眷属たちがその様子を見て、慌てているとモルセーゴは気にしなくてもいい、いつものやつだ。と言って自分の部屋に彼女を連れ帰る。

 

彼は、タオルに包まれた彼女をゆっくりベッドに下ろすと、すぐに布団をかける。

ベッドに座って、うーんと唸るリュゼの額を少しだけ撫でると、彼は何かを思い出したかのように立ち上がって部屋を出た。
向かったのは、リュゼが助けた女が眠っている部屋だった。
女は薄茶色の髪を枕の上に長く垂らしている。物音に気がついたのか、葱色の瞳を薄く開けて、部屋に入ってきたモルセーゴを見た。
彼はその様子を気にすることなく、ベッドの横に置いてあった椅子に座った。

「体はどうだ。

その問いに、女は寝たまま受け応えた。

「ええ、もう平気です。モルセーゴ様…あの子が助けてくれたんですよね。あの子は、大丈夫ですか?

その問いに、彼は静かにうなずいた。その様子を見るとニッコリと笑って、女は目を閉じた。

「良かった…あの子が助けてくれなきゃ、私は死んでました。あとで感謝の言葉を伝えたいんですが…

「体がちゃんと良くなってからにしたほうがいい。ちゃんと栄養をとって、しっかり休め。

彼女はモルセーゴのその言葉に頷いた。その様子に安堵したのか、モルセーゴは椅子から立ち上がり、部屋の扉を開けて出ていった。

女は、入れ違いで部屋に入ってきたコウモリに驚きつつも、持っている飲み物を受け取る。
窓の外では雨の滴が窓や壁に打ちつけられ、けたたましい音を立てている。


雨はまだまだ止みそうにないようだ。

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